2010年4月アーカイブ

過日、昼飯中のことだった。

 

迂闊なことに昼のワイドショーをつい見てしまった。

そこでなんと、NLPのアイアクセシングキューを話題にしていた。

 

アクセシングキューとは視線の動きで相手の優位な五感を見分ける技術だ。

その技術はまるで超能力の様だが、実際は脳科学と統計を背景にした方法だ。

 

さて、司会者が一人の出演者に「昨日の昼食は何でしたか」と質問した。

相手が答えるまもなく「ハイ、ありがとうございました」と話しの腰を折った。

 

これを他、数名の出演者に続けた。

その後、答えた出演者に次のように解説した。

 

答えるときに眼球が情報に動く人は視覚が優位な人。

眼球が左右に動く人は聴覚が優位な人。

下方に動くなら身体感覚が優位だと言った。

 

なるほど、NLPのアイアクセシングキューをそう紹介しても良いだろう。

でも、アイアクセシングキューをそのように紹介されて動揺した。

 

第一に人は記憶を検索するときにリードシステムを使う。

それは優先的な代表システム(感覚)とは別の場合が多々ある。

それが質問に関して反応することをご存じないまま解説されたからだ。

 

第二に長年にわたりNLPに携わって分かったことがある。

それは人の優先的な代表システムはTPOで変わると言うことだ。

職場では視覚が優先的な代表システムでも自宅では違う場合もあり得る。

その様なケースを切り捨てて一瞬にして優先的な感覚を見分けられるのだろうか。

 

もし、TOPで優先的な代表システムがかわらないとしたら、どうだろう。

少なくとも私の場合は疲れ果てて三日と命が持たないだろう。

いつも1つの感覚で周りと接触するのは苦痛だからだ。

 

ある人は、例えば職場では高速に情報を処理できるように視覚を優位とする。

だが、くつろぐことが許される過程なら身体感覚が優位だろうと予想できまいか。

 

それ以前に1つの感覚に釘付けされた生き物はすぐ淘汰の道に迷い込むだろう。

例えば、昼間と同じ視覚優位のままで、闇夜の世界で命を守れるか。

たぶん、そのままなら、他の動物の胃袋に収まることになる。

 

ついアイアクセシングキューと代表システムの関係をあれこれと述べた。

なぜ、そのように長広舌をするのかと訝しいことだろう。

 

なぜ訝しいか。

それはNLPを誤解して欲しくないからのだ。

加えて、ひと言でNLPを語るワイドショーの薄っぺらさが嫌いなのだよ。

それ以上に、その薄っぺらさにいちいち囚われる自分の薄っぺらさも嫌なのだよ。

久しぶりにブログを更新する。

 

食事をしながらお昼のワイドショーを見た。

すると、NLPのテクニックが紹介されていた。

 

そのテクニックが仕草を真似するミラーリングとオーム返しだった。

なるほど、お昼のワイドショーもNLPに注目する時代になったのだね。

しかし、その2つでコミュニケーションが良くなると言い切るのはどうだろう。

 

もちろん、それでコミュニケーションが良くなる場合もある。

だが、そうすることがコミュニケーションを悪化させることもある。

相手はテクニックの対象ではなく、コミュニケーションの相手だからだ。

 

本来、ペーシングの技術はコミュニケーションが良好な関係で自然に発生する。

それを逆に真似て見たらどうなるか試みたら有効な場合が多かった。

もちろん有効ではない場合もあるのは当然のことだろう。

それがペーシングの源だったことは覚えておきたい。

 

また、自分自身にあまり興味がないのに、

テクニックだけでコミュニケーションを進めようとする相手はどうだろう。

自分が、単にテクニックの対象になっていることはモルモットみたいで嫌なもの。

自らが欲せざるところを人に施すなかれではないだろうか。

 

逆に相手に強い興味を持ち、

「あなたの話をもっと聴かせて」と思う時、

それがコミュニケーションを行う本来のあり方であろうし、

そのあり方からは、オーム返や仕草の同調が自然に起こるものだ。

 

一方、相手に興味を持たず、

それらのテクニックを使う時どんな事が起きるか。

「あなたのことはもう分かったから」と非言語でメッセージが伝わる。

お察しの通りその語義は、相手との関係性が終わることを意味する。

 

非言語のメッセージは本人が隠したつもりでも隠すことができない。

だから、単にテクニックの対象になった人はあることに気付く。

そう、「何だか、嫌な感じ」になるのだ。

 

NLP始め様々なコミュニケーションのテクニックは取り扱いの注意が必要だ。

コミュニケーションをしようとする相手自身に興味を持っているか。

「あなたのことがもっと聴きたい」と心から願っているか。

 

その願いがあるならテクニックは後から自然についてくる。

ついてこなくてもコミュニケーションは自然に深く豊かになってくる。

親密な恋人たちの間にあるのは技法ではない。

そうではなく、あるのは何事にも優る相手のことをもっと知りたい思いだろう。

その思いを愛と言うのだろう。

 

と、つい青臭いことを書いてしまった。

そう、私はお昼のワイドショーの薄っぺらさが嫌だったのだよ。

 

 

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